But I hope I can be with you
自分がやっていたことを人の目を通して聞いてびっくりした。
自分がそんなことをしていたなんて、知らなかった。
少なくとも私の脳はそういう風につなげて考えて、意味を見出してなどいなかった。
点、点、点、
事実が点になっているが、つなげるとそういう絵になるのかって驚く感じ。
一つ一つの行動は、脳と心と精神と体のコラボの結果かもしれない。
その場合、もしかしたら無意識が大きな影響を持っているかもしれない。
私が選んでいるのか。
Under Controlすぎるのかもしれない。
いつのまにか抑圧したり、理想的と思われる方向にプッシュしたりしている。
少し縛っている。少し不自由。
進みたい方角ではあるのかもしれないが、少し強制(矯正)して、向かっている。
結果、ゴールがないとき、
どうしたいのか…何が見たいのか…聴きたいのか…伝えたいのか…わからない。
目を背けたいシーン。体が嫌がったシーン。
前向きにやること。行動すること。その正解をやろうとするとき、自分自身と解離してしまう。
前に前に進もうとしすぎて、内臓をいくつか置いてきている感じかもしれない。
嫌がりながらもやるのか、止めるのか、それは選択。
幅を広げるより前に、まずは自分が何者で、何をしがたっているのかを大切にするべきなのかもしれない。
自分を深める作業は1人のときにやって、ワークではチャレンジをするというのが理想かもしれないが。
理想から入ると、なんか、自分をプッシュして自分の動機を置き去りにしている感が出てしまう。
体が反応してくれることはすごく嬉しいことなんだけど
それすらも自分で貼っているレッテルかもしれない。
体が反応するってことは、自分のより深いところからきている感覚で、
これを続けていれば、もっと自分の体とコネクト/コンタクトできるのではないかと。
しいてはインプロでもっといいシーンできるかなとか。ダンスでもっと美しいものをできるかなとか。
現実的極まりない、こういうのをなんて言うんだっけ。成果主義っていうか、結果ありきで憧れている感じだ。
じゃあ今の自分はどうなりたいの?
ご飯を食べたいの、食べたくないの?
寝たいの、起きてたいの?
おざなりになる。結果的に自分が何をしたいのか全然わからない。ヒントもない。横たわってボーッとしてみていると、無気力になったりする。
エネルギーは出そうと思わなくても出るものではないだろうか。
プッシュして出すエネルギーは燃費が悪い。ガソリンがたくさん必要だ。
ーーー
今日はふとした瞬間に「無意識」へとアクセスしていたように思う。少なくとも無意識世界を意識することが何度かあった。
きっかけは朝見ていたテレビの皆川明さんのアートワーク。
見た瞬間に「とすん」と体に降りてくる感じ、同時に羨望が沸く感じ。
理解を超えているから、脳が嫉妬する。共振するから、精神が喜ぶ。
脳が嫉妬しながらも、精神が喜ぶ。この感覚、時々ある。
脳が嫉妬することで、脳はそこに憧れて、ついていきたくなる。
精神はどうしてるのだろう。ついていくことに賛成はしている気がするが。
脳も精神も賛同するから、結果としてアートをやってる。
脳が許したその分野で、アートをやってる。
ただ、その世界でも引き続き、脳がコントロールしている。やってるのは、なんかアートというより鍛錬している感じ。
鍛錬、修練、なんかそんな感じ。
だが、本当は、アートはもっと広く、もっと自由で、もっと根ざした感覚があるはず。
分野の問題ではない。やり方の問題。
ーーー
いつもなんとなく正当化しながら話している。
脳は答えを出そうとするが、脳が答えを持っていないのだ。
だから、質問に対する答えはすべて「正当化」になる。
正当化しているってことはそれは、ある意味、「嘘」って感じだ。
嘘しかついたことないんじゃないかとすら思ってくる。
もちろん、厳密にいったら「言葉にしている」ということはすべて「嘘」になる。
でも言いたいのは、言葉にしていることがあまりにも現実味がないっていうか
自分の体に根ざされたものではないってことかな。
根差されていないけど、嘘ついていたくはないから、必死に嘘ではないことを証明しようとしている。
話に筋が通っているかばかり気になる。
でっかい愛。。嬉しい、そしてうらやましいなあ。